「――さて、ちょっと早いけど昼食にしようか」 合羽(かっぱ)橋(ばし)の道具屋筋なども回っていると、時刻は十一時半になっていた。「うん。軽めのランチだと、どこがいいかなぁ? ハンバーガーとか?」「いいんじゃないかな。むしろそれくらいでちょうどいい」「えっ、ホントにそんなでいいの!?」 愛美は思いつきで挙げただけなのに、純也さんはあっさりOKを出した。「うん。俺、実はそういうファストフードとか、ジャンキーなのもよく食べてるんだよ。一人でも気楽に入れるしね」「ああ……、なるほど」 彼はお坊っちゃま育ちなのでもっとグルメなのかと思っていたけれど、意外と庶民的な食べ物も好むらしい。そういうところも、辺唐院家の人らしくないといえばらしくないかもしれない。「そういえば、原宿に行った時もクレープ屋さんで注文が手慣れてたもんね」「そういうこと。じゃ、行こっか。……支払いは各自で、にした方がいい?」「そうしてもらった方が、わたしも純也さんに気を遣わなくていいからそっちの方がいいです」 ――というわけで、二人はバーガーショップで軽めの昼食を摂った。テーブル席で向かい合い、純也さんは普通のハンバーガーを、愛美はチーズバーガーにかぶりつく。 高くて美味しいものを食べているわけではないけれど、この方が愛美には気楽でいい。「……あ、純也さん。口の横にケチャップついてる」「えっ、マジで? どっち?」「わたしから見て左側。じっとしてて、拭いてあげる」 自分では拭こうとしない彼の顔の汚れを、愛美は甲斐甲斐しく紙ナプキンで拭いてあげた。(……もう! 大の大人なのに世話が焼けるんだから!) まるで子供がそのまま大きくなったような人だと、愛美は母性をくすぐられた。三十歳の大人の男性なのに、「可愛い」と思ってしまう。「……はい、取れた。これくらい、自分で拭けばいいのに」「ありがとう。愛美ちゃんが世話を焼いて拭いてくれるかな、と思ってわざと拭かなかった」「何それ?」 純也さんの言い草が何だかおかしくて、愛美は笑い出した。 十三歳も歳の離れた恋人と、初デートでこんなバカップルみたいなやり取りができるなんて思ってもみなかった。
――昼食の後、純也さんは愛美を日(に)本(ほん)橋(ばし)へ連れて来てくれた。「愛美ちゃん、ここが日本橋。日本の出発地点だよ」「学校の地理の授業で習ったよ。東海道とか中山道(なかせんどう)のスタート地点なんだよね。――で、これがあの有名な翼のある麒(き)麟(りん)像か……」 愛美は橋の中ほどにある彫像を見上げた。 麒麟とは動物園やアフリカ・サバンナにいる首の長い動物のキリンではなく、中国で四聖獣――玄(げん)武(ぶ)・朱(す)雀(ざく)・青(せい)龍(りゅう)・白(びゃっ)虎(こ)とともに聖獣と崇(あが)められている空想上の生き物で、ビールのパッケージなどのデザインにもなっている。 本来の麒麟には翼がないのだけれど、この麒麟像に翼があるのは「ここから自由に羽ばたいていってほしい」という作者の想いが込められているのだそう。「そういえば、この麒麟像が登場する東(ひがし)野(の)圭(けい)吾(ご)さんのミステリー小説があったよね。わたしもあのシリーズが好きでよく読んでるよ」「ああ、あの刑事が主人公のシリーズだろ? 俺も好きだな。あれ、何作もドラマとか映画化もされてるよ。多分ネットで配信もされてるから、観てみるといい。特に『麒麟の翼』と『祈りの幕が下りる時』は泣けるよ」 純也さんはやっぱり読書が好きらしく、自分の好きな作品の話をする時の表情はイキイキしている。彼と好きな本が共通していることが愛美は嬉しかった。 ここでも純也さんがモデルのイメージショットを数枚撮り、付近の町並みをブラブラ歩いてから、二人は車に戻った。「――さて、愛美ちゃん。次はいよいよお楽しみの場所、日比谷(ひびや)の帝国ホテルへ向かいます」「えっ、ホテル? そこがお楽しみの場所なの?」 愛美は予想外の行き先に目を丸くした。 帝国ホテルは愛美も名前くらいは知っている、言わずと知れた格式高い高級ホテルだ。今日は日帰りの予定なので泊まるわけだはないようだけれど、そこで一体何をするつもりなんだろう?「うん。愛美ちゃん、〝ヌン活〟って知らないかな?」 まだ車はスタートさせていなかったので、純也さんはスマホで何かを検索して画面に表示させ、愛美に向けた。「あ、聞いたことある。もしかして……アフタヌーンティー?」「大正解♪ 帝国ホテルのアフタヌーンティーは、宿泊客じゃなくても利用できる
* * * * 純也さんが予約してくれていたアフタヌーンティーは、一階のレストランのものだった。 館内は高級感が漂いながらも上品で、落ち着いた感じがする。辺唐院家のキラキラ・ケバケバした感じとはかけ離れていて、愛美はこちらの方が寛げそうだと思った。「――すみません、アフタヌーンティーを二名で予約している辺唐院ですが」「はい。ただいまお席へ案内致します。上着とお荷物、お預かり致しますね」「あ、はい」 愛美と純也さんはスマホと財布のみを持って、レストランのスタッフの女性に案内されたテーブル席に着いた。「――愛美ちゃん、スコーンって食べたことあるかい?」「そういえば……ないかも。スコーンってどんなのだっけ?」 横浜にはパン屋さんがたくさんあるので、パン屋さんの店先に売られているのをみかけたことはあるかもしれない。でも、実際に買って食べたことはなかった。「えーっと、イギリス発祥で、パンとクッキーの中間みたいな感じでね。アフタヌーンティーには欠かせないお菓子なんだ。イチゴとかブルーベリーのジャムをつけて食べると美味しいんだよ。パン屋にはチョコチップを練り込んで焼かれたものも売られてるね」「へぇー……、美味しそう」 今日食べてみてハマったら、今度パン屋さんでも買って食べてみようと愛美は思った。「――お待たせ致しました。アフタヌーンティーセット、二人前でございます。ゆっくりお楽しみ下さいませ」 やがて、二人の前に三段重ねのシルバートレーのティーセットが運ばれてきた。そのトレーには一段目に美味しそうなサンドイッチ、二段目にスコーン、いちばん上の段に小ぶりなケーキなどのスイーツが盛り付けられている。 そして、ティーポットからは紅茶のいい薫りがしてくる。まさに映画や小説などで見る、貴族のティータイムの光景。(わぁ……、こんなにステキな光景が現実にあるなんて!) 〝あしながおじさん〟に出会っていなければ、愛美はきっとこの場に来ることもなかっただろう。でも、セレブの御曹司である純也さんに――〝あしながおじさん〟に出会えたから、ここに来ることができた。(……でも、この人はまだ知らないんだろうなぁ。わたしが今そう思ってること)「美味しそうだね、愛美ちゃん。じゃ、頂こうか」「うん。いただきま~す」 スタッフの男性に紅茶を給仕してもらい、愛美は純也
「……そういえば愛美ちゃん、ここでは写真撮らなくてよかったの?」「あ、忘れてた!」 純也さんに言われて気がついた。今日は行く先々で、取材として写真を撮っていたのに。ティータイムを楽しむのに夢中になって、すっかり頭の中からスッポリ抜け落ちていたのだ。「でもいいの。このアフタヌーンティーは予定外の時間だったし、自分へのごほうびタイムだと思って取材は抜きってことにするから」 もし、ここも「取材だ」と割り切っていたら、こんなに楽しめなかっただろうから。愛美もここは純粋に「デートだ」と思って、心から楽しむことにしたことにする。 ……ただ、SNSにアップするためになら写真を撮っておいてもよかったかな、と思ったり。「っていうか、純也さんってここでも目立ってるね。イケメンだし背が高いから」「……ん? そうかな?」 彼は気にしていないようだけれど、二人のテーブルの周りにいる女性客たちがみんなザワついているのだ。モデル並みの容姿を持つこのイケメンは一体何者かしら、と。(そして、そのイケメンとふたりでお茶してるわたしは、彼の何だと思われてるんだろう……) 少なくとも恋人だとは思われていないだろう。親戚とか、そんなふうにしか見えないかもしれない。「でも俺は、君以外は眼中にないから。愛美ちゃんも周りからどう見られてるかなんて気にしなくていい。君が俺の恋人であることに間違いはないんだからね」「あ……、うん。そうだよね」 周りからどう見えるかが気になるのは、愛美自身が「純也さんとわたしは釣り合っていないんじゃないか」と気にしているからだ。(愛美、純也さんの言う通りだよ。そんなの気にしちゃダメ! 彼が本気で好きになってくれたのはあなただけなんだから、もっと自信持たないと!)「こんなに非日常が味わえる時間、周りの目なんか気にしてたら楽しめないよね。よし、ここにいるのはわたしと純也さんと、給仕の人だけ。他の人たちの存在は忘れちゃおう!」「はははっ! 愛美ちゃん、それはいくら何でもオーバーじゃないか?」「そうかなぁ?」 純也さんは笑うけれど、そのおかげで場の空気が和み、愛美はこの非日常の空間での時間を心から楽しむことができた。
* * * * ラグジュアリーな空間でのんびりお茶を楽しみ、愛美と純也さんはお腹も心も満たされた。 二人はクロークでコートとバッグを受け取り、レストランを出た。「な? 昼食軽めにしてよかったろ?」「うん、ホントにね」 支払いは純也さんが二人分もってくれた。 ここのアフタヌーンティーの料金はかなり高額で、一人分でも六千円以上かかる。さすがにこの金額は、高校生がお小遣いで支払える額の範囲を超えている。(純也さん、どっちで支払ったんだろう? ブラックカード? それとも現金で?)「――お待たせ! 支払い済んだから出よう」 首を傾げている愛美のところへ、ホテルのフロントから純也さんが戻ってきた。「はーい。――ね、純也さん。支払いは現金とカード、どっちで?」「ここはカードで。ブラックカードってね、ホントはあちこちでひけらかすようなものじゃないんだけどさ。ホテルのフロントではカード払いの方が楽っちゃ楽なんだよな」「…………ほぇー」 愛美はそう言われてもピンと来なくて、間の抜けた声を出すしかなかった。 * * * * 帝国ホテルを出ると、日が傾き始めていた。 二人は車で、今日の最終目的地である東京スカイツリーへ行った。 ここは全長六百三十四メートルという、世界一の高さを誇る電波塔である。 タワーの下には〈東京ソラマチ〉という複合施設があって、そこにはショッピングモールや水族館も入っている。「――わぁ……、キレイな夕日……」 ここの入場チケットも純也さんが買ってくれて、二人はエレベーターで天望デッキへ上がった。 ガラス張りの窓の外には東京の街並みが広がっていて、西の空にはちょうど日が沈みかけている。「ちょうどいい時間に来られたな。もう少し暗くなってからだと、ここから見える東京の夜景がキレイなんだけど……。さすがにそんな遅い時間までは高校生を連れ歩けないから」「う~ん、キレイな夜景を見られないのは残念だけど。この夕焼けが見られただけでも、今日は来た価値はあるかな。純也さん、連れてきてくれてありがとう」 愛美は彼にお礼を言い、スマホで夕日の写真を撮った。「俺のイメージショットは要らないの?」「うん。ここは小説に登場させるかどうかまだ決めてないから。あの夕日だけでも記念に撮っておきたくて」「……そっか」「でも、今日一日あち
「――ねえ、純也さん。わたしがどうして純也さんのことを好きになったか分かる?」 手すりにもたれかかりながら、愛美は隣りに立つ彼に訊ねる。この恋が始まったキッカケを、彼に打ち明けたことは今までなかった。「……いや、分からないな。教えてくれるかい?」「純也さん、初めて学校を案内した時に、わたしの名前を褒めてくれたでしょ? あと、会ったこともないわたしの両親のことも。だからわたし、純也さんのこと好きになったんだよ」 愛美自身も、あの頃はまだ亡くなった両親から愛されていたかどうか自信がなかったので、純也さんに言われた言葉で救われたのだ。今は自分が確かに両親から愛されていたんだと思えるし、両親の愛に報いるような生き方をしようとも思える。「あれがキッカケで……? 俺はごく普通のことしか言ってなかったつもりだったんだけどな」「ううん。わたし、あの時までは誰かからそんなふうに言われたこと、あんまりなかったから嬉しかったの。だからだと思う。純也さんのこと、すごく好きになったのは。……だから、ありがとう」「そう……だったのか」「うん。そうだったんだよ」 そして彼は、色々な場面で愛美のことを気にかけてくれている。インフルエンザで入院生活を余儀なくされた時には、お見舞いにキレイなフラワーボックスを送ってくれた。心のこもった手書きのメッセージカードを添えて。あんなに失礼極まりない手紙を書き送ったにも関わらず。 それはあくまで〝あしながおじさん〟としてしてくれたことで、愛美もその頃はまだ彼がしてくれたんだとは知らなかったけれど。 でも、愛美はまだ純也さんに「あなたが〝あしながおじさん〟でしょう」と追及するつもりはない。なぜなら、愛美のことを欺(あざむ)き続けていることにいちばん良心の呵(か)責(しゃく)をおぼえているのは誰でもない彼自身だと分かっているから、彼の方から本当のことを打ち明けてくれるまで待っていることに決めたのだ。(気づかないフリをするのもまた、一つの勇気なんだよね……)
「――俺が愛美ちゃんを好きになった理由は、前にも話したよな。君は俺のことを家柄とかステータスでじゃなくて、一人の人間として、一人の男としてちゃんと見てくれてるから。それまで出会ってきたどんな女性とも違うと思った。それで珠莉と同い年の、十三歳も歳下の女の子だと頭では分かってても好きだっていう気持ちは止められなかったんだ」「うん」 だから彼は、ヌン活の時にあんなことを言ったのか。あれはきっと、愛美に言っているようで自分自身にも言い聞かせていたんだろう。「純也さん、わたしとの年の差のことは気にしなくていいよ。わたし、四月で十八歳になるの。つまり、法律上は成人ってことだから、付き合ってても何の問題もなくなるんだよ」「ああ……、そっか。う~ん、でも法律上は問題なくなっても、珠莉がどう思ってるかな……」「珠莉ちゃんのことなら気にしないで。今はわたしと純也さんの仲を応援してくれてるから。好きな人できたから、純也さんのこと気にしてないと思うし」「えっ、アイツに好きな男ができた!? どんなヤツか、愛美ちゃんは知ってるのか?」 愛美の思いがけない発言に、純也さんは「初耳だ」とばかりに目を丸くした。「知ってるよ。そして多分、純也さんも知ってる人」「俺も知ってる……っていうと、もしかして、さやかちゃんのお兄さんとか? まさかなー」「うん、そのまさか」「ウソっ!? マぁジでー!?」 純也さんのリアクションは、今どきの若者らしいものだった。けれど、三十歳にしては若すぎる気がしなくもない。「まだお付き合いはしてないみたいだけど、連絡先は交換してやり取りはしてるみたいだよ」「まだ付き合ってはいないのか。でも、珠莉にもそういう相手ができたんだな。ちょっと安心した」「純也さん、叔父さんの顔になってる」 久しぶりに彼のそういう表情を見て、愛美は笑った。 ――話しているうちに、外の夕焼けが濃くなっていた。ラベンダー色に染まった二人は何だかロマンチックだ。 その雰囲気に後押しされるように、二人は自然と唇を重ねていた。キスをしたのは夏以来だと思う。「愛美ちゃん、今日は楽しかった?」「うん、すごく楽しかったよ」「よかった。じゃあ、そろそろ帰ろうか。――また二人でどこかに出かけようね」「うん!」 ――二人は手を繋ぎ、エレベーターに乗ってスカイツリーの外へ。愛美ももう
* * * * ――その日の夕食も、愛美は純也さんと珠莉と三人だけで、二階のセカンドダイニングで摂ることになった。「ウチの他の連中は、食事のマナーとかにいちいちうるさいから。一緒のテーブルを囲むのは愛美ちゃんにとってストレスになると思うんだ」 との純也さんの計らいで、毎食そうすることになったのだという。もちろん、愛美にも異存はなかったので、彼のその提案をありがたく受け入れることにした。「――で、お二人とも。今日のデートはどうでしたの? 充分に楽しめまして?」 この三人ならマナーを気にしなくていいので、食事中もお喋りが弾む。 珠莉が親友と叔父のカップルに、初デートの感想を訊ねた。「うん、楽しかったよ。純也さんに色んな面白いところに連れていってもらえて、写真もいっぱい撮ってきた。あと、初めてアフタヌーンティーも体験してきたの」「あら、よかったわねえ」「俺も、久しぶりに愛美ちゃんと一日ずっと一緒に過ごせて楽しかった。まだ連れて行けてないところがいくつもあるのが残念だけどな」 「わたしも、ソラマチは行きたかったなぁ。でも、これで小説の大体のイメージは掴めたから、いよいよ執筆に入れるよ」「そう。頑張ってね。……私も頑張らなきゃ」「……ん?」「え? 珠莉ちゃん、『頑張らなきゃ』って何を?」 珠莉が自分に言い聞かせるようにポツリと言った一言に、愛美も純也さんも首を傾げた。「……純也叔父さま、私、この後お父さまとお母さまに自分の夢について打ち明けようと思いますの。お願いですからついてきて下さいません?」「分かった。一緒に行ってやろう」「ありがとうございます、叔父さま」「そっか、いよいよだね。珠莉ちゃん、頑張って! わたしは一緒についていけないけど、応援してるからね!」「ええ。ありがとう、愛美さん」 珠莉は愛美にもお礼を言った。その決意を秘めた笑顔には、初めて会った頃のつっけんどんな彼女の面影はどこにも見当たらない。(わたしが夢を叶えて、今度は珠莉ちゃんの番! ご両親の説得、純也さんと一緒に頑張ってほしいな……)「……珠莉、変わったな。どうやら愛美ちゃんからいい影響を受けてるらしい」「うん。もしホントにそうだったら、わたしも嬉しいな。――純也さん、珠莉ちゃんの援護射撃よろしくね」「ああ、もちろん!」 * * * * ――
「……お二人とも、聞こえてるんだけど」「あっ、ゴメン!」「こっちの話は気にしないで、読む方に集中して?」 さやかと愛美が謝り、そう言うと、珠莉はひとつため息をついた後にまた画面に視線を戻した。「集中して」と言ったって、ムリな話ではあると思うのだけれど――。 ――それから一時間ほど後。「愛美さん、読み終わりましたわよ」 珠莉がパソコンの画面を閉じて、愛美に声をかけてきた。「えっ、もう読んだの!? 早かったね」 あの小説は原稿用紙三百枚分ほどの長さがあるので、じっくり読み進めると読み終えるまで二時間以上はかかるはずだ。ということは、珠莉は読むスピードを速めたということになる。「ええ、愛美さんが私からのアドバイスを待ってると思って、急いで読んだのよ。――それでね、愛美さん。この小説で私が感じたことなんだけど」「うん。どんなことでも大丈夫だから、忌憚なく言って」「じゃあ、述べさせてもらうわね。――私の感じたことを率直に言わせてもらうと、やっぱりこの小説の中からは、あなたのセレブに対する苦手意識というか偏見というか、そういうものが読み取れたの。出版に至らなかった理由はそこなんじゃないかしら」「あー、やっぱりそうか。編集者さんからも同じこと言われたんだ」 書籍として流通するということは、この小説が多くの人の目に触れるということだ。読んだ人の中には気分を害する人も出てくるかもしれない。プロとして、そういう内容の本を世に送り出すわけにはいかないと判断されたのだろう。 もしこの小説を珠莉ではなく、純也さんに読んでもらったとしても、きっと同じことを言われたに違いない。「『出版できない』って聞かされた時はショックだったけど、これで納得できたよ。ありがとね、珠莉ちゃん」 これで、初めての挫折からはすっかり立ち直ることができそうだ。愛美はもう前を向いていた。「いえいえ、私でお役に立ててよかったわ。でもあなた、思ったより落ち込んでいないみたいね」「そういやそうだよねー。『ヘコんだ」って言ったわりにはけっこう前向いてるっていうか」「うん。もうわたしの意識は次回作に向いてるから。いつまでも落ち込んでられないもん」 二年前の愛美なら、いつまでもウジウジ悩んでいただろう。でも、もうネガティブな愛美はいない。純也さんに釣り合うよう、いつでも自分を誇れる人間でいた
「ええ、いいわよ。私でよければ。とりあえず着替えさせてもらうわね。それからでもいいかしら?」「あ、うん。もちろんだよ。ありがと。なんかゴメンね、帰ってきたばっかりなのに」「いいのよ、愛美さん。謝らなくてもよくてよ」「ありがとねー、珠莉。アンタと愛美、すっかり仲良くなったよね。最初の頃はさぁ、愛美に『叔父さま盗(と)られた~!』とか言ってたのに」 さやかは二年以上も前の話を持ち出して、二人の関係がすっかり変わったことに感心している。あれはこの高校に入学した翌月で、純也さんが初めて学校を訪ねてきた時のことだ。 それに対して、珠莉が制服から私服に着替えながら答える。「あの頃はまだ、純也叔父さまが愛美さんのいう〝あしながおじさま〟の正体で、お二人が恋人同士になるなんて思ってもみなかったもの。本当に、人生って何が起こるか分からないものよね」「うん……、ホントにね」 珠莉の最後のセリフに愛美も頷いた。純也さんが〈わかば園〉の理事をしていなければ、理事であったとしても愛美の学費を援助すると申し出てくれなければ、彼女は今この場にいなかったのだ。山梨県内の公立高校で、悶々とした高校生活を送っていただろう。もしくはどこかの温泉旅館で住み込みの仲居さんとして働いていたとか。「――はい、お待たせ。着替え終わったから原稿を読ませてもらうわ。データは残してあるのね?」「うん。わたしのPCのデスクトップと、一応USBにも保存してあるよ。待ってね、今ファイル開くから」 愛美は自分のノートパソコンで、ボツになった原稿のファイルを開いた。「これがその小説だよ」「分かったわ。じゃあ、ちょっと失礼して」 珠莉は愛美に場所を譲ってもらい、ブルーライトカットのためにPC用の眼鏡(メガネ)をかけて小説の原稿を読み進めていった。「……珠莉ちゃんって普段は眼鏡かけないけど、たまにかけるとすごく知的に見えるよね」「顔立ちのせいなんじゃない? あたしが眼鏡かけてもああはならないよ。あたし、上向きの団子っ鼻だからさ」 珠莉が真剣な眼差しで原稿を読み進める傍(はた)で、愛美とさやかはヒソヒソと彼女の意外なギャップを発見して盛り上がっていた。愛美に至っては、彼女の頼みごとをした本人だというのに……。
「あ、愛美。おかえり。――どうした? なんかちょっと元気ないじゃん?」「うん……。さやかちゃん、鋭い。ちょっとね、ヘコんじゃう出来事があって」「もう友だちになって三年目だよ? 元気がないのは見りゃ分かるって。今日は編集者さんと会ってたんだっけ。じゃあ、作家の仕事絡み?」「正解。詳しい話は珠莉ちゃんが帰ってきてからするけど、長編の原稿がボツ食らっちゃってね」「えっ、ボツ!? 長編ってあれでしょ、冬からずっと頑張って書いてて、夏休みの間に書き上げたっていう、純也さんが主人公のモデルだった」「うん、そうなの。あれ」 さやかがズバリ、どんな作品だったか言い当てて愛美も頷いたけれど、さすがに純也さんが主人公のモデルだったという情報まで言う必要はあっただろうか?「う~ん、そっかぁ……。珠莉、部活は五時までだったと思うから。帰ってきたら一緒に話聞いてもらおう。珠莉の方が、あの小説のどこがダメだったか分かると思うんだ」「そうだね。わたしもそう思ってた」 一応は社長の娘だけれど庶民的なさやかより、生まれながら名家のお嬢さまである珠莉の方が、ダメ出しのポイントが適格だと思う。何せ、モデルは彼女の血の繋がった叔父なのだから。 それから三十分ほどして、部活を終えた珠莉が部屋に帰ってきた。「――ただいま戻りました」「珠莉ちゃん、おかえり。部活お疲れさま」「珠莉、おかえりー。何かさあ、愛美が聞いてほしい話があるんだって」 珠莉がクローゼットにスクールバッグをしまうのを待ってから、二人は彼女に声をかけた。 彼女は最近、週末は雑誌の撮影で忙しいけれど、平日の放課後はまだ部活があるので撮影は入っていないらしい。こちらも学業優先なのだ。「――愛美さん、私に聞いてほしい話ってなぁに?」「えっと、わたしが冬休みから長編小説を書いてたこと、珠莉ちゃんも知ってるよね? ……純也さんが主人公のモデルの」「ええ、知ってるわよ。夏休みの間に書き上がって、編集者さんにデータを送ったらしいってさやかさんから聞いたけど。あれがどうかして?」「実はね、あの小説、ボツになっちゃったの。今日、編集者さんから『あれは出版されないことになった』って聞いて。でね、どういうところがダメだったのか、珠莉ちゃんに読んで指摘してもらえたらな、って思ったんだけど……」 珠莉はプロの編集者ではないので、
「――そうだ! 次回作は〈わかば園〉のことを題材にして書こう」 自分が育ってきた、よく知っている場所のことなら書いていてリアリティーもあるし、作品に説得力を持たせることもできる。当然のことながら、主人公のモデルは愛美自身だ。「よし、次回作はこれで決定! 今年の冬休み、久しぶりに〈わかば園〉に帰って園長先生とか他の先生たちに話聞かせてもらおう」 愛美の記憶にあることはまだいいけれど、憶えていない幼い頃のことや、愛美が施設にやってきた時のことは園長先生から話を聞かなければ分からない。――それに、愛美の両親のことも。(わたし、お父さんとお母さんが小学校の先生で、事故で亡くなったってことしか知らないんだよね。どんな両親で、どんな事故で命を落としたのか知りたいな) 施設で暮らしていた頃は、まだ幼くて話しても分からないから教えてくれなかったんだろう。でも、愛美も十八歳になって、世間では一応〝大人〟なのだ。今ならどんな話を聞かされても理解できると思う。それがたとえどんなに残酷な話でも、聞く覚悟はできているつもりだ。「……うん、大丈夫。わたしはもう大人なんだから、どんな話を聞いても怖くない」 愛美は決意を新たにしたことで、自身の初めての挫折とも向き合うことを決めた。「今回ボツになったこと、報告しないわけにはいかないよね……」 もちろん〝あしながおじさん〟に、である。ガッカリされるかもしれない。けれど、失望はされないと思う。だって、純也さんはそんなに冷たい人ではないから。「でも、慰められるのもまたツラいんだよね。そこのところは手紙で一応釘を刺しとくか」 部屋に帰ったら〝おじさま〟宛てに手紙を書こう。そう決めて、愛美は寮の玄関をくぐった。「――相川さん、おかえりなさい」「ただいま戻りました。あ~、晴美さんとこうして話せるのもあと半年足らずかと思うと淋しいです」 寮母の晴美さんと挨拶を交わせるのも、高校卒業までだ。大学に進めば寮を変わらなければならないので、当然寮母さんも違う人になる。「私も淋しい~! でも、寮母として寮生の巣立ちを送り出さなきゃいけないから。毎年淋しく思いながら、断腸の思いでそうしてるのよ」「そうなんですね。あと半年、よろしくお願いします」 晴美さんにペコッと頭を下げてから、愛美はエレベーターで四階へ上がった。角部屋の四〇一号室が、三
「……あの、ボツになった理由は?」「あの作品、セレブの世界を描いてますよね? その描写が不十分というか、かなり不適切な描写があったと。先生個人の偏見のようなものが含まれていたようなんです」「ああ~、そう……ですよね。わたし、実は一部の人たちを除いてセレブの人たちって苦手で。冬休み、セレブのお友だちの家で過ごしていた時に色々と取材したんですけど。その時もあまりいい印象は持てなかったです」 純也さんとデートした日のこと以外にも、愛美はあの家に出入りしている富裕層の人たちを観察したり、クリスマスパーティーの時に感じたことも小説の中に織り込んでいた。多分、それが原因だろう。「なるほど……。冬休みといえば二週間くらいですか。富裕層の人たちのことを正しく描写しようと思えば、その程度の日数では足りなかったんでしょう」「ですよね……」 愛美はすっかりヘコんでしまい、大きくため息をついた。(わたしってホントは才能ないのかな……。純也さんの買い被りすぎ? だったら、彼にムダなお金使わせちゃっただけかも)「先生、そんなに落胆しないで。今回は残念な結果でしたけど、次回作でいい作品をお書きになればいいんです。先生はまだ高校生ですし、先生の作家人生はまだ始まったばかりなんですから。焦らず、じっくりといい作品を送り出していきましょう。僕も協力を惜しみませんから」「はい……、そうですね。次回作は頑張ってみます」 ――愛美持ちで会計を済ませて岡部さんと別れた後、愛美は自分でも悪かったところを反省してみた。(岡部さんに原稿を送る前に、珠莉ちゃんにデータを送って読んでもらえばよかったかな。珠莉ちゃんなら何か的確なアドバイスをくれたかも) 愛美にとっていちばん身近なセレブが珠莉である。彼女に最初の読者になってもらえば、「ここがよくない」とか「ここはこういう書き方の方がいい」とか助言してもらえて、もっといい作品になったはず。そうすればボツを食らうこともなかったかもしれない。(……まあ、〝たられば〟言いだしたらキリがないし、もう終わったことだからどうしようもないんだけど) 済んでしまったことを悔やむより、前に進むことを考えなければ。「次回作……、どうしようかな」 寮への帰り道、悩みながら歩いていた愛美の頭を不意によぎったのは、彼女が中学卒業まで育ってきたあの場所のことだっ
* * * * それから数週間後の放課後。この日は文芸部の活動はお休みだったので、短編集のゲラの誤字・脱字などのチェックを終えた愛美は学校の最寄駅前にあるカフェに担当編集者の岡部さんを呼び出した。「――はい。相川先生、お疲れさまでした。これでこの短編集『令和日本のジュディ・アボットより』は無事に発売される運びとなります」「よろしくお願いします。わたしも発売日が待ち遠しいです」 愛美は確認を終えたゲラを大判の封筒に入れる岡部さんに、改めてペコリと頭を下げた。 ゲラの誤字や脱字を赤ペンで修正していく作業は初めてだったけれど、思いのほか少なかったので楽しくこなすことができた。あとは一ヶ月後、本屋さんの店頭に並ぶ日を待つだけだ。(純也さん、聡美園長とか施設の先生たちにも宣伝してくれたかな。もちろん自分では買って読んでくれるだろうけど) 彼は〈わかば園〉を援助してくれている理事の一人でもあり、あの施設の関係者で愛美の書いた本がもうじき発売されることを前もって知っているのも彼だけなのだ。彼ならきっと、園長先生にはそれとなく報告しているだろうけれど。 (どうせなら、立て続けに二冊発売される方が園長先生や他の先生たちも、もちろん純也さんも喜んでくれるだろうな……)「――ところで岡部さん、わたしの長編の方はどうなりました? データを送ってから一ヶ月以上経ってると思うんですけど」 そろそろ出版するかどうかの決定が下される頃だろうと思い、愛美は岡部さんに訊ねてみたのだけれど……。「…………すみません、先生。それがですね……、あの作品は残念ながら出版できないということになってしまいまして。つまり、ボツということです」「えっ? ボツ……ですか」 彼の返事を聞いて、愛美は目の前が真っ暗になった気がした。岡部さんはあれだけ作品を褒めてくれたのに、熱心にアドバイスまでくれて、書き上がった時にはものすごく喜んでくれたのに……。(なのに……ボツなんて)「だって、岡部さん言ってたじゃないですか。『これは間違いなく出版されるはずです』って」「いえ、僕はあの作品を気に入ってたんですけど……、上が『ダメだ』というもので。僕も本当に残念だとは思ってるんですが、まぁそそういう次第でして」「そんな……」 岡部さんもガッカリしているのだと分かったのがせめてもの救いだけれど
彼も反省してたんだって知って、わたしは彼を許してあげることにしました。やっぱり彼のことが好きだから、仲違いしたままでいるのはつらかったの。仲直りできてよかったって思ったのと同時に、どうしてもっと早くできなかったんだろうとも思いました。フタを開けてみたら、こんなに簡単なことだったのに。 純也さんに、この秋に発売されることが決まってる短編集の売り込みもバッチリしておきました(笑) わたしが作家になって記念すべき一冊目の本だもん。ぜひとも読んでもらいたくて。 純也さんは今、まだオーストラリアにいるそうです。あと二、三日したら帰国するって言ってましたけど。 日本とオーストラリアには時差は一時間くらいしかないけど、あっちは南半球なので季節が真逆だっていうのが面白いですね。「こっちは寒さが厳しいから、早く日本に帰りたいよ」って彼は言ってました。帰ってきたらきたで、こっちはまだ残暑が厳しいからあんまり過ごしやすくないけど。そういえば、オーストラリアってクリスマスシーズンは真夏だから、サンタクロースがトナカイの引く雪ゾリじゃなくてサーフボードに乗って登場するんだっけ。 付き合ってる以上、純也さんとはこれから先もケンカするかもしれないけど、今回のことを教訓にして早く仲直りできるようにしようと思います。どっちかが折れなきゃいけない時には、なるべくわたしが折れるようにしたい。純也さんだって、そんなに無茶なことを言わないと思うから。 もうすぐ、編集者の岡部さんがさっき話した短編集のゲラ稿を持ってくるはず。そしたら、いよいよ商業作家としてのお仕事が本格的に始まります。長編の方はデータを送ったきり、まだ連絡はありません。今ごろ出版会議の真っ只中ってところかな。どうか出版が決まりますように……! かしこ八月三十一日 いよいよ商業デビューする愛美』****(純也さんがこの手紙を読むのは日本に帰国してからだろうな……。どうか、あの小説の出版が決まりますように!) だってあれは愛美が初めて執筆に挑戦した長編小説で、本として世に出るために書いていたのだから。自分でも、もしかしたら大きな賞とか本屋大賞が取れるんじゃないかと思うほどよく書けたという自負がある。 ――ところが、世間はそう甘くなかった。
****『拝啓、あしながおじさん。 お元気ですか? わたしは今日も元気です。 今日、さやかちゃんと一緒に〈双葉寮〉に帰ってきました。明日から二学期が始まります。 今年の夏休みも、ワーカーホリックの中学校の宿題はバッチリ終わらせました! さやかちゃんも。 珠莉ちゃんはこの夏、モデルオーディションを何誌も受けて、ついにファッション誌の専属モデルに合格したそうです! わたしに続いて、珠莉ちゃんも夢を叶えたんだって思うと、わたし嬉しくて! 二学期には自分の進路を決めなきゃいけないから、多分一学期までより学校生活も忙しくなりそう。わたしは作家のお仕事もあるから、他の子たち以上に大変だと思う……! でも、わたしと珠莉ちゃんはもう進学する学部を決めてるからまだいい方かな。問題はさやかちゃん。まだ福祉学部にするか、教育学部にするかで迷ってるみたい。わたしは彼女がどっちを選んでも、全力で応援してあげたいと思ってます。 ところでおじさま、聞いて下さい。わたし今日、やっと純也さんと仲直りできたの! 実は夏の間ずっと、彼といつ仲直りしたらいいのかタイミングをうまく掴めずにいて、わたしも気にしてたの。 確かに七月のケンカでは、わたしにヒドいことをさんざん言った彼の方が大人げなくて悪かったけど、わたしもちょっと意固地になりすぎてたのかなって反省したの。「メッセージを既読スルーしてやる」とは思ってたけど、彼からはまったく連絡が来なくて、だからってわたしから連絡するのもなんかシャクで。 でも、やっぱり仲直りしたいなと思ってたタイミングで、おじさまにも話した彼からのあの上から目線のメッセージが来て。わたしはさやかちゃんのご実家に行くことにしたから、その時にも仲直りはできなくて。 で、今日思いきって彼にメッセージを送ってみたの。電話にしなかったのは、彼がオーストラリアにいるってメッセージを送ってきてたからっていうのと、電話で話すのは正直まだシャクだったっていうのもあって。そしたらすぐに既読がついて、彼から電話してきてくれたの。 純也さん、「大人げないのは自分の方だった。ごめん」ってわたしに謝ってくれました。彼はわたしの自立心とか向上心が本当は好きだけど、同時に自分に甘えてくれなくなるんじゃないかって、それを淋しく感じてたみたい。「男ってバカだろ?」って言って笑ってました。
「……純也さんは今、まだオーストラリアにいるの?」『うん。こっちは今、冬の終わりって感じかな。でも寒さが厳しくてさ、早く日本に帰りたいよ。そっちはまだ残暑が厳しいんだろうな』(あ、そっか。オーストラリアは南半球だから日本と季節が真逆になるんだっけ) 地球の反対側にあるオーストラリアは、日本と時差はほぼないに等しいけれど、その代わり季節が逆転しているのだと愛美は思い出した。クリスマスにサンタクロースが雪ゾリではなく、サーフボードに乗ってやってくるというのが有名なエピソードである。「そうなんだよね。明日から九月なのに、まだ真夏みたいに暑いの。純也さん、日本に帰ってきたら茹(ゆ)だっちゃいそう」『それは困るなぁ。でも、あと二、三日後には帰国する予定だから。仕事も立て込んでるみたいだしね。でも、どこかで予定を空けて愛美ちゃんに会いに行くよ』「うん! じゃあ、気をつけて帰ってきてね。わたしも明日からまた学校の勉強頑張る。あと、短編集のゲラのチェックもやらないといけないから、そっちも」『現役高校生作家も大変だな。でも、何事にも一生懸命な愛美ちゃんならどっちも頑張れるって、俺も信じてるよ。……夏休みの宿題はちゃんと終わった?』「大丈夫! 今年もちゃんと全部終わらせたから。――それじゃ、帰国したらまた連絡下さい」『分かった。じゃあまたね、愛美ちゃん。メッセージくれて嬉しかったよ』「うん」 ――愛美が電話を終えると、嬉しそうに笑うさやかと珠莉の顔がそこにはあった。二人は通話が終わるまでずっと、成り行きを見守ってくれていたようだ。「純也さんと無事に関係修復できてよかったじゃん、愛美」「お二人がギクシャクしてると、私たちも何だか落ち着かなかったのよねえ。だから、無事に仲直りして下さってよかったわ」「さやかちゃん、珠莉ちゃん、心配かけてごめんね。でも、わたしと純也さんはこれでもう大丈夫。見守ってくれてありがと」 思えば七月に彼とケンカをしてから、この二人の親友にもずいぶんヤキモキさせてしまっていた。彼女たちのためにも、こうして無事に彼との仲を修復できてよかったと愛美は思った。「――さて、一応形だけでも〝おじさま〟に報告しとかないとね」 あくまで愛美が「純也さんと〝あしながおじさん〟は別人」、そう思っているように彼には思わせておかなければ話がややこしくなる